シークエル三部作(EP7~EP9)の完結から5年以上たつが、未だに制作陣の方向性の違いによるチグハグさを指摘する声も尽きない。特に『スカイウォーカーの夜明け』が『最後のジェダイ』とは違う道を選んだとの指摘が数多くある。一方で、ようやくスター・ウォーズは前進し、『スカイウォーカーの夜明け』のその後を描くターンに入りつつある。そんな今だからこそ、同作がいかに『最後のジェダイ』のテーマを軽視してしまったかの問題点を指摘し、今後のスター・ウォーズにおいて注目すべき視点を提起したい。
この記事では、『最後のジェダイ』が描いた「歴史は繰り返す」=「社会による悪の再生産」への批判というテーマを切り口に、『スカイウォーカーの夜明け』がいかにそのテーマを放棄しているかを指摘する。切り口が社会構造であるため、カイロ・レンをはじめとしたキャラクター像について描写不足があることはご容赦願いたい。いずれは個々人のキャラ像に焦点を当て三部作全体を再考したいとは考えている。
論旨
第二のヴェイダー、第二の帝国が登場したシークエル三部作の根本のテーマとは「歴史は繰り返す」「悪の再生産」である。『最後のジェダイ』は単純化された善悪構造のおとぎ話を否定し、その根源を社会構造の悪として描いた。カイロ・レンという悪が誕生したのも、戦争が再び起こったのもすべては社会というシステムに起因するとした。ルークがジェダイというシステムを終わらせようとしたのは、システムが生み出す悪を破壊しようとする行動だった。しかし、そのルークも最期には社会の善を信じた。
その続編は、社会によって悪が生まれることを前提として認めつつも、社会の善も生まれ続けることを強調する内容となるべきだった。だが、『スカイウォーカーの夜明け』は悪の根本を社会ではなくパルパティーンという一人の巨悪に押し付け、「子供を愛さない親の存在の抹消」を通じて社会を健全化した。「完結」を目指したことにより複雑な社会構造の描写を避け、単純化された旧来の善悪構造に回帰したため、おとぎ話と社会批判の統合をなしえなかった。「歴史は繰り返す」「悪の再生産」という根本のテーマから外れ、そこへの普遍的な回答である「それでも正義は勝利する」と示す機会を失った。
シークエル三部作のテーマ「歴史は繰り返す」
シークエル三部作における最大の目標とはなんだったのか。それは物語を続けることの意義を示すことである。『ジェダイの帰還』の大団円の後、無意味に物語を続ければ、蛇足にしかならない。シークエル三部作は物語を続けるにふさわしいテーマを必要とし、その答えの一つとして「歴史は繰り返す」が提示された。新たなヴェイダー、新たな帝国、新たな超兵器――これらの登場は、そのテーマを視覚的にも物語的にも明確にした。『フォースの覚醒』が『新たなる希望』のオマージュを多用し非常にスター・ウォーズらしい作品だったことも、この主題をさらに観客に刻み込む効果を果たしていた。作品の中で、悪役であるカイロ・レンは、悪の再生産を担うキャラとして描かれていた。
『フォースの覚醒』が示した「歴史は繰り返す」は現実にも通用する普遍的なテーマであった。2010年代当時の欧州ではかつて倒したはずのナチズムがネオナチとして再び台頭していた[1]。現在も残る多くの悪は、我々が歴史上すでに対峙してきたものばかりであり、社会から新たな悪が誕生することは止められない。次の闘いを描く新たなスター・ウォーズを作るうえで、このテーマは作品にふさわしい重みを与えていた。そして、三部作を通じて描かれる回答は、社会構造が悪を再生産する現代社会の構造問題に直接通じ、国や時代を越えて通用するような新たなおとぎ話としての普遍性を獲得させるはずだった。
『最後のジェダイ』が描いた悪の根源:社会
その次作である『最後のジェダイ』は、「繰り返す」という物語構造の予定調和を破り、一見『フォースの覚醒』とは異なる方向に進みだした。しかし、これは「歴史は繰り返す」という現実的・構造的なテーマを進展させるためであった。以前の記事でも述べたが、『最後のジェダイ』は、スター・ウォーズらしいおとぎ話的な枠組みを真っ向から否定した。同作はより現実的な社会に蔓延る悪を強調し、おとぎ話と現実を分け隔てた。金儲けを考える武器商人は戦争の激化を望み、自分勝手な悪人は最後まで悪人であり、己が可愛い一般人は正義のために立ち上がらない。英雄だとみなされていたルークすら自分の弱さによってカイロ・レンを誕生させた。本作は物語構造の反復は拒絶したものの、悪の根源を人間の弱さと、それを包摂する社会システムにあると描き「歴史が繰り返す」必然性を描いた。
シークエル三部作におけるカイロ・レンは、『最後のジェダイ』を通じて単なる悪役を超え、社会が生み出す病理の象徴としての側面を獲得した。彼がベン・ソロからカイロ・レンへと変貌した背景には、個人の選択だけでなく、ルークの恐れと期待、子供を親から引き離して騎士にするジェダイの制度の限界、ひいてはその制度に依存する社会の構造的な問題があった。
さらに本作では、親子関係が社会の縮図として描かれている。レイは「愛されない子ども」として社会の歪みを体現し、カイロ・レンは「愛されながらも愛を信じられない子ども」として不信と孤独を抱える存在となった。レイの描写があることで、カイロ・レンの不信感は「社会には愛されない子が存在する」という社会悪の現実に根ざしていることが示される。このように、『最後のジェダイ』はカイロ・レンを通じて、悪とは個人の選択ではなく、社会が生んだものであるという普遍的なテーマを描いていた。だからこそ、彼は観客にとって不気味でリアルな悪役として強い印象を残したのである。
要するに『最後のジェダイ』は、「なぜ歴史は繰り返し、悪は再び現れるのか」という問いに、社会に悪が常に存在するからだという回答を示したのである。自己中心的な悪、その上にある社会構造というシステム。これらがあり続ける限り、悪は再生産される。無理やり悪の再誕を止めるには、システムそのものを断つしかない。ルークがジェダイを滅ぼそうとしたように。ルークの行動とは過激だが、同時に悪を再生産させない唯一の解決策だったのだ。
そのうえで、『最後のジェダイ』はニヒリズム的な終わり方に留まらなかった。最期にルークは英雄となり希望の灯火を守ることで、この世界に希望を託した。なぜか。それは良くも悪くも「歴史は繰り返す」からである。この世界は確かに悪を生み続ける。だが、同時に新たな希望も生まれ続ける。かつての自分のように、銀河の片隅から正義のために立ち上がる英雄は必ず現れ、正義のためにもがき続ける。そして、少しずつだが前進していく。そのことを実感したからこそ、ルークは連綿と続く社会を滅ぼさず、次の世代へ希望を託す道を選んだのだ。社会の生み出す悪と善を描くことで、完結作たるエピソード9に向けて「歴史は繰り返す」というテーマは熟成されていた。
『スカイウォーカーの夜明け』がすり替えた悪の根源:パルパティーン
前項で述べたように、『最後のジェダイ』はこの社会が悪を生み続けること、それでも善を信じる新たな英雄もまた立ち上がり続けるであろうことを示した。完結作である『スカイウォーカーの夜明け』は、社会は悪だけではなく善をも生むというこの普遍の真理を雄弁に語る絶好の機会だった。しかし、この作品は悪の根源を別に求め、この機会を逃した。
『スカイウォーカーの夜明け』は、悪の根源を社会ではなく、非人間的な「不死身の大悪魔」パルパティーン皇帝に求めた。ここにきて、シークエル三部作は、「歴史は繰り返す」というテーマを放棄し、すべてはパルパティーンという一つの巨悪の物語だとしたのだ[2]。パルパティーンという巨悪を生み出した社会の構造には焦点が当たらず、彼が滅ぼされればすべてが解決するという単純な構図に落ち着いてしまった。
さらに、レイの両親が実は彼女を愛していたという設定変更は、社会の縮図たる親子関係の描写を通じて、社会を健全化しさらに悪を社会から切り離した[3]。カイロ・レンを通じて描かれていた社会が悪を生むという前作のテーマは後景に退いた。社会の病理としての普遍性を体現していたカイロ・レンは、巨悪に操られる存在へと矮小化され、社会の歪みを映すリアリティを喪失した。
そんな『スカイウォーカーの夜明け』にも、『最後のジェダイ』の続編としての方向性を受け継いだ部分は確かにある。前作のクレイトの戦いでは駆け付けなかった人々が、本作のエクセゴルの戦いでは正義のためにと立ち上がる。社会には悪だけでなく、善もあると示す。この方向性は確かに前進であった。さらに、レイが血縁ではなく、自ら選んだ家族にアイデンティティーを見出す展開は、家族を社会の縮図と描いた前作へのカウンターにもなっている。
しかし、その描写は旧来のおとぎ話的な構造と『最後のジェダイ』の社会批判を結びつけ進化させるには一歩及ばなかった。同作は社会の善の側面を強調し、悪が再生産される社会構造そのものの描写を避けた。結果として、三部作を通じた悪役だったカイロ・レンの贖罪も、社会の病理を個人がどう克服するかという普遍性を持ち得ず、悪の根源を超自然的存在に帰する旧来の図式になった。現実の悪の根底には、パルパティーンのような非人間的な「不死身の悪魔」はいない。国民主権の現代において、悪の根源とはやはり社会にあるのだ。普遍性を持つうえで不可欠だったその描写が失われた。
スター・ウォーズはもともとおとぎ話的構造に基づく英雄譚であり、「完結」と商業的な成功のためには巨悪を倒すという旧来の単純な構図へと回帰したことは理解できる。だが、『最後のジェダイ』が提起した社会構造を悪の根源とする視点と統合できなかった。「歴史は繰り返す」というシークエル三部作の根本からも外れ、そこへの普遍的な回答である「それでも正義は勝利する」と語る機会を逃した。結果、スター・ウォーズというおとぎ話は現代に通用する普遍的なおとぎ話となることができなかった。
スター・ウォーズという伝説的な作品は、普遍性を獲得できずに「完結」してしまった。スカイウォーカー・サーガは最後までルーカス時代の遺産という再現不可能なものに頼ってしまった。だが、忘れてはならないのは、スター・ウォーズは今なお続いているということである。冒頭でも触れたが、2027年には『スカイウォーカーの夜明け』の5年後を描く映画『スターファイター』が、その先には15年後を描く 「ニュー・ジェダイ・オーダー(仮題)」が控えている。パルパティーンという諸悪の根源が滅び、シスやジェダイというシステムさえも消えた。繰り返しとなるが、そんな今だからこそ悪の根源は社会であり悪は何度も勃興するという「歴史は繰り返す」真理を描き出し、そこへの普遍的な回答である「それでも正義は勝利する」と描き出す好機である。スター・ウォーズが再生産される以上、悪が再生産され続けるというテーマに向き合わなければならない。現実に通ずる普遍性の獲得を今後のスター・ウォーズ映画には期待したい。
[1]実際に新たな帝国たるファースト・オーダーの元ネタはネオナチであることがJJエイブラムスの口から語られている。
[2]超兵器だったり、艦隊を人質に主人公を脅したり、これが「歴史は繰り返す」ならまだしも、「パルパティーン個人が繰り返す」という構図になって彼が失敗から何も学ばない男になっていることも残念だ。
[3]よく指摘されるが、パルパティーンの「息子」デイサン(Dathan)は、正確には彼の息子ではない。その遺伝子を使用した人造人間「ストランド=キャスト」である。すなわち、『スカイウォーカーの夜明け』には子を愛さない親は登場しない。
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筆者:ジェイK @StarWarsRenmei